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<ノベル>
「おまえ、あの城へ何をしにいくんだ」
冬月真の問いかけに、女――稲見はつ香はゆっくりと振り返って、ただ彼の顔を見つめ返すだけだった。
「な、なんだよ」
見返り美人は、さすがに極道の妻、というべきか、美しいのに、ただそうしているだけで妙な迫力のようなものがある。十も年上の、場数を踏んだ探偵も、たじろぎ気味にならざるをえないほどの。
「何やろねえ。ただなんとなく……。理由がないとあかんかったやろか?」
いくぶん冷ややかに答えながらも、艶やかな紅のうえに微笑を上せる。思いきり抜かれた襟にのぞく、おくれ毛のかかる白いうなじが、月の光を浴びてぞっとするほどに艶かしい。真は居心地わるそうに目をそらしつつ、居ずまいをただした。ボートが揺れる。
鏡のような湖面には星空が映りこみ、ふたりを乗せたボートはまるで銀河をただようようだった。
和装の女と着古したスーツの男を乗せて、漕ぎ手のいないボートは滑るように、中洲の城へと近付いて行く。
「そういうあんさんは?」
「俺か。……猫を――探してな」
「猫?」
はつ香はそこではじめて興味を持ったように、真へ向き直った。
岸辺で、先にボートに腰を降ろした彼女のあとから、駆けてきて乗り込んだ男が、真だった。普通であれば、夜の湖に、見知らぬ男女がふたりっきりのボートで漕ぎ出すなどそうあることではないが、それを許せたのは、はつ香も多少は腕におぼえのある身だったからかもしれないし、真のまとう空気に何かを見い出したからかもしれない。
「こう見えて俺は探偵だ。猫探しの依頼を受けた」
真のそんな言葉に、はつ香は可笑しそうに笑った。
「何がおかしい」
「だって。岸辺の森ならいざ知らず。中洲に猫ちゃんが渡るわけないやないの。泳ぐ猫なんか聞いたこともないわ」
「ボートに乗ったかもしれん」
「まあ」
くすくすと笑うはつ香に、いささかむっとしたような真。
やがて、城の優美にして荘厳なシルエットが間近になる。
『封印の城』は、こうして、ふたりを迎え入れたのであった。
★ ★ ★
冬月真は走る。
追っているのか、追われているのか。
なぜ走っているのか、前後の文脈にまつわる記憶がない。それでも走らなければならない、と彼は思う。
(猫――)
そうだ。猫を探していたんじゃないのか?
息が上がるのも構わずに走り続けながら、おぼろげに、そんなことを考えた。
自分は探偵だ。
どんな依頼でも条件が折り合えば引き受けるが、持ち込まれるのは決まって猫探し。それも立派な仕事のひとつだが、べつだんそれが専門というわけでもない。しかしそれが得意なのもまた事実で、いつのまにか、「猫探しの得意な探偵」という評判が広まってしまったのだろう。
(それに……)
猫の好きなやつに悪い人間はいないというから。
(猫を追って……道路に飛び出されたようです)
病院の、冷たい廊下。
(猫……?)
呆然と、そう聞き返したことを覚えている。
そして部屋に帰れば、彼を待っていた、たくさんの、ぬいぐるみの猫たち。
きょとんとした顔で真を見上げた黒目がちな瞳。
猫なんて、もう見たくないと思ったこともある。
それでも――
(大丈夫ですよ。すぐ見つかりますから)
依頼人を前にするとそう言ってしまう。
猫探しは、地道で、決して楽な仕事ではない。刑事時代のそれのように命の危険などがあるわけではないが、ある意味でそれ以上の忍耐が必要だ。
丹念に調べを重ね、包囲の輪を狭めていく。
それでも猫は、するりと逃げだしてしまう。
追ってはだめだ。
(猫を追って……道路に飛び出されたようです)
人間の犯人とは違う。
人間の犯人は、幾度も、追いすがって、捕らえてきた経験のある真である。
路地から路地へ、物を蹴り飛ばし、けたたましいクラクションのあいだをぬって、逃げ去る背中を追った。怒号。そして、銃声――。
冬月真は走る。
追っているのか、追われているのか。
追っているのは、猫か、犯人か。それとも、猫を追って駆け出した誰かか。幾人もの凶悪犯は捕らえることはできたのに、それだけは止められなかった背中だろうか。
その運命を、止めることができなかった。
(猫を追って……道路に飛び出されたようです)
止めることができなかった自分、という現実が、彼を追い回す。
たぶん一生、それから追われつづける。
後悔という毒を含んだ、自責という針のついた尾をふりあげて、それが真を追う。
「……!」
冬月真は走る。
彼を追っているのは、巨大な蠍だ。
まがまがしい鋏をそなえた腕と、凶悪なあぎとが、彼を捕らえようとする。彼が犯人たちを追ってきたように、今度は、彼が追われる番だ。
毒針のある尾が振り上げられる。
やめろ。くるな。
真は――、いや……それは冬月真ではなかったかもしれない。
彼と同じ顔立ちをしているけれど、いつのまにか、身にまとう服装が違う。
古代の狩人の姿をした男は、大蠍から逃れて、海へと駆け出す。
海の神を父に持つ彼は、波間を歩くことができたから。
★ ★ ★
「……」
蠍は、天井画の中にいた。
その心臓にあたる部分が、赤々と燃えるような炎の塊として描かれている。
アンタレス――蠍の心臓。
「ああ……。眠っちまっていたのか。おかしいな」
「疲れてはるんと違う?」
長椅子から身を起こすと、傍のはつ香が婉然と微笑む。
ずっと寝顔を見られてたっていうのか。むず痒いような、悔しいような思いが真をとらえる。
そこは、ボートを降りたところから城へ入り、灯火に導かれるままに石の螺旋階段を登りつめた先。尖塔の最上階の広間だった。
テラスから吹き込む風は、真冬だというのに冷たくない。
「なんか飲まはる?」
はつ香がすすめた。
「これはおまえが?」
真の問いに、女はかぶりを振った。
絨毯の上にはいくつかの飲物の壜と、銀の皿が並べられている。皿の上にはナッツや果実が盛られていた。来た時にはなかったはずだが――。
「いつのまにかここに。ちょっとよそ見した隙に、誰かが用意してくれはったんやねえ。サービスのよろしいこと」
「誰も……人の気配はないようだが」
元刑事の感覚は伊達ではない。はつ香も頷いた。
「まあ、よろしいやないの。せっかくやから、頂きましょう」
色硝子の杯に、果実の香りのする酒を注いで、はつ香は真へ差出した。
「ん――。すまん」
酒は香りほどには甘くなく、不思議な異国風の味わいである。
「……」
耳を澄ませば、夜風に混じって、どこかから音楽が聞こえてくるようだ。
真にはそれが何の楽器なのかはわからなかったが、オリエンタルな、弦楽器だろうということだけが察せられる。どう聞いてみても、どの方角から鳴っているのかは、しかし、わからなかった。
「不思議な……ところだな」
「ほんとうに」
はつ香は天井画を眺めた。描かれているのはギリシアの天球図だ。星座にたくされた神話の人物や生き物たちが生き生きとした筆致であらわされている。眺めながら、傍の男へ言う。
「猫ちゃん探しはええの」
「ああ」
自嘲めいた含み笑い。
「おまえの言う通りだよ。猫が湖を渡るはずもないな。……そしてここには俺たち以外には何もいない。そうだろ?」
そう言って、再び、長椅子に身を預けた。
「背もたれが深いな。星を見るため……なのか」
天井の一部が天窓になっているのを指す。
ふたりはそこに切り取られた夜空の中に、ひときわ輝く星を見つける。
「オリオン座やね」
「そうなのか」
「冬の大三角形。……ほら、あそこにオリオンの絵が」
神話の時代の狩人を描いた絵を、はつ香が示す。
「どことのう……あんさんに似てはる」
「そうか。俺はあんなに男前じゃない」
「あら、ご謙遜。…………オリオンは、もてる男やったんよ。暁の女神に愛されて……女神が夜明けの空を染める仕事を早々に切り上げてまでオリオンに会いにゆくから、夜明けの時間が短くなってしもうたんやて」
「…………罪だな」
ぼそり、と、真は呟いた。
はつ香はそれには応えずに、続けた。
「けれど、オリオンはそのあと、夜明けの時間が短くなったのを不審に思って、暁の女神のもとを訪れた女神アルテミスと恋に落ちるん」
「おいおい。暁の女神はどうなったんだ」
「さあ? ……神話はときどきいいかげんなもんやね」
真は肩をすくめた。
(いってらっしゃい。……今日も遅くなりそう?)
(たぶん帰れない)
(……)
(……すまんな)
(ううん。いいの。いってらっしゃい)
ふいに、脳裏によぎる、遠い日々の追憶。
今思えば、それはなんとあまやかで、そして、どこかに切ない予兆のようなものをはらんだ日々だっただろう。
まるでふたりとも、いつか、それが失われることを知っていながら、目をそらして生き急ぐかのようだった。
(なぜあの頃、もっと……)
女神でさえ、夜明けを染めるという大役を放り出してまで、愛するもののもとへ戻っていったというのに。
(俺は……)
そっと目を閉じた真の横顔。
はつ香は、自分のグラスに酒を注いだ。
さっき、夢のなかで、彼が口にした名については、秘めておくことにする。たぶんその名の女性はもういないのだろう。失われたものを呼ぶときだけの、痛切な響きがそこにはあったから。
たまたまボートに乗り合わせただけのこの男が、どんな別れを経験したのかは知らないが、はつ香はどこか、自分と似たような匂いを、男に対して感じ取っていた。
たぶんそれは、心から愛して……愛したと思ってはいるが、本当に愛し切れたのかわからないまま、自分の前から消えてしまった相手のことを、今なお追っているものに共通する匂いなのだ。
★ ★ ★
義理事の席は、いつだって張り詰めているものだが、はつ香があの男に嫁いだ時のそれは、いつもとは違う緊張が組中にただよっていた。
人並みの暮らしなど自分にはないものと、はつ香は、自分が生まれたのがどういう家かを理解したときから、とうに諦めていた。その彼女が、唯一、譲ることのなかった選択の結果だったから、誰もくつがえすことはできなかったのだが……、当のふたりをのぞいて、誰も祝福することのない結婚だった。
睨み合う男たち。一触即発ともいえる空気のなかで、それでも、白無垢のはつ香は美しかった。
紋付袴の傍の男の、いつも厳しい冬の風の中を歩いているような横顔にも、その日ばかりは、穏やかな日が差していた。
しかしそれは……求めてはいけない幸福だったのだろうか。
はつ香は思う。
あるいは自分と結ばれさえしなければ、彼は死なずに済んだのかもしれない。
ちょうどオリオンが、アルテミスと出会いさえしなければ、暁の女神の宮殿で永遠の蜜月を過ごしていられたかもしれないのと同じに。
「ごらん、アルテミス」
兄である太陽神アポロンは、妹神を傍に呼び寄せて言う。
「あの水平線を」
輝くほどに美しい兄妹の神は、並び立って、海原をのぞんだ。
「あの波間にただよっているものがあるね。ここからは随分遠い。いくらオリンポス一の弓の名手と讃えられるあなたでも、まさかあんなに遠い、あの小さな的を射ることなんてできはしまいね。それができれば大したものだが」
太陽神は小姓たちにアンブロシアの美酒を注がせながら、妹をからかうかのように言った。
高潔な月の女神は、傲岸ともいえる笑みを兄神へ向けた。
「ならばご覧あそばせ、兄様」
愛用の弓をもたせると、矢をつがえ、弦を引き絞る。
兄神の美しいおもてに浮かんだ、奸智を秘めた笑みに、射手は気づかない。
そして矢は放たれたのだ。
女神の矢は、まごうことなく、千里の距離を越え、海原の彼方の的に命中した。
満足げに微笑めば、アポロンは手を叩いて妹を祝した。
「お見事、アルテミス。それでいい。それでいいのだ、わが妹よ」
純潔を司る月の女神が、神の血を引くとはいえ、人間の狩人と恋になど落ちてはならぬ。それはそういう、アポロンの怒りより発した計りごとだった。
後日、浜辺に打ち上げられたのは、オリオンの屍だった。
恐ろしい刺客の大蠍から逃れて、波間へ落ち延びた彼の胸を射貫いたものこそ、恋人のアルテミスの矢に他ならなかったのである。
(アルテミスは後悔したやろうか)
立ち尽くす月の女神の伶俐な横顔は、稲見はつ香のそれだった。
(禁じられた恋の果てに、愛した男を死に追いやってしまったことを)
はつ香が嫁いだ男も死んだ。
もとより死と隣り合わせに生きる世界の人間である。それは運命であったのかもしれないが――。
むろん、手を下したのははつ香のあずかり知らぬものだったけれど、その運命を招き寄せたのが自分なら、間違いなく、弓を引いたのはおのれのこの手だったと、はつ香は思うのだった。
★ ★ ★
はつ香は目を開けた。
今度は自分まで、眠り込んでしまっていたらしい。ひそやかに流れるあの弦の音が、眠りを誘わずにはおかないのだ。
真の姿が見えず、見回せば、テラスにたたずむ背中があった。
「……いつまでも、この森の夜は明けない。ずっとここにいたら、永遠に眠ってしまいそうだな」
歩み寄るはつ香に、彼は背中で言った。
「眠り姫の城やね」
「おまえはそれでも絵になるが、俺はそうはいかん。……猫もいないみたいだし、戻ろうと思うが」
「ええけど、最後までおまえ呼ばわりは好かんわ」
横に並んで、夜の森と湖を見下ろしながら、はつ香は言った。
「ああ、いや……、そういえばそうか。すまんな」
「稲見はつ香」
「はつ香か、いい名だな。……俺は冬月だ。冬月真」
「探偵さんやったね?」
「猫がいなくなったときは連絡をくれ」
名刺を差出す。
「猫がいなくならへんかったら、連絡したらあかんの?」
「そういうわけじゃないが……俺になんか用がないだろう」
「どうやろね」
ふふふ、と、朱がほころぶ。
思わせぶりな笑みに、真は、ふう、と息をついた。
そして振り向いたときには、ささやかな酒席の跡も片付けられている。その手際に、思わず顔を見合わせるふたり。
星空は、尖塔のうえをゆっくりと巡っていた。
天窓に星座がうつろう。
明けることのない永劫の夜に、次々と、神話の物語が紡ぎ出されてゆき、湖の鏡面がそれを二重に映す。
ひとくみの男女の、秘めた追憶は、口に出されることはないままに、『封印の城』の抱くところとなり、この静謐な夜にしまい込まれてゆくのだろう。
そして帰りのボートが、音もなく、中洲を離れてゆくのだった。
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クリエイターコメント | リッキー2号です。お待たせしました。『【封印の城】星読みの塔』をお届けします。
ご参加の方に恵まれたと思っています。しっとりとした大人なおふたりのおかげで、文章のほうも、それなりのものになっていればよいのですが。
おふたりにとっても、これがよきご縁に(いや、深い意味ではなくて……)なればいいなと思います。
それでは、また機会がありましたら、銀幕市のどこかでお会いしましょう。 |
公開日時 | 2007-01-07(日) 16:00 |
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